どんな言葉がモラハラになるのですか?

 

モラハラというものは誤解されがちです。

 

正確にいうと自己愛性人格障害者が

繰り出す責任転嫁や支配はそれ自体が

モラハラとなるのですが、

 

それを理解していないと、

暴言そのものがモラハラであるとか、

こういう無視や態度などがモラハラに

該当するとか、

そういう限定的なものに執着しないといけなくなります。

 

究極を言うと、

自己愛性人格障害者が逃げ出そうとする

被害者に対して必死で謝罪するのも

モラハラの一種になるわけです。

 

なぜなら自己愛性人格障害者の謝罪というのは

このブログでも何度も申し上げているとおり、

普通の「許してくれ」という謝罪とは違います。

 

「ごめんなさい、自分のやってきたことは

許されないことだ、何を言われても仕方がない、

罰も受け入れるつもりだ

(これだけ謝っていて完璧な謝罪なのだから、

お前はこれを受け入れるのが

人としてのモラルというものだろう)」

 

という、モラルハラスメントなのです。

ですから自己愛性人格障害者の謝罪を受け入れないと

いつまでも謝罪を受け入れないお前はおかしい、

という認識のまま、

自己愛性人格障害者は執着や嫌がらせし続けます。

 

言葉の暴力や態度などだけが

モラルハラスメントとはいえないのです。

 

そもそもどんな言葉がモラハラに

該当するのか?

というところだけに執着していると、

被害者は、「あ、じゃあそれはごく自然なことだから

モラハラには該当しないんだ」

「でも優しい人だからモラハラとはいえない」

「自分が悪いのかもしれない」

 

というところばかりに着目してしまい、

被害者が自分の気持ちを無視してしまうことに

なりがちです。

 

それがモラハラ的発言だとか

そうじゃないとかは関係ないのです。

 

そもそも人は誰と付き合うか選ぶ権利があります。

 

非常に危険なのは、

やっぱり自分が道理的におかしいのだ・・・

相手の言っていることはモラハラでもなんでもなく

常識なのだ・・・・

ということばかり結論としてこしらえてしまい、

 

「言われているあなたは

何を感じているか?

快か不快か?」

 

というところをまったく無視してしまうところです。

 

その発言がモラハラであろうとなかろうと、

相手が自己愛性人格障害者であろうとなかろうと、

 

だから相手の言っていることが正しい、

いや相手の言っていることが間違っている、

というところばかりに着目していても

どうしようもないのです。

 

事実として言われているほうが

何を感じたか?傷ついているのか?

がっかりしたのか?ショックだったのか?

 

という自分の心に焦点を当てないと、

いつまで経っても

これはモラハラか?モラハラではないのか?

正しいのか?正しくないのか?

というところを言ったりきたりするしか

ないのですから。

 

どれが正しいか正しくないかなんて

誰にも分かりません。

 

第三者にジャッジしてもらっても

100人いれば10人くらいは相手が正しいと判断

するかもしれませんし

またはその逆かも知れません。

 

ですからその関係性を作っている当事者が

判断するしかありませんが

無論自己愛性人格障害者も自分が常識的で

正しいと思っていますし被害者も

相手のほうが正しいのかも・・・と思いながらも

違和感もぬぐえないのです。

 

危険なのは、常識という言葉に囚われ

自分自身の気持ちを無視してしまう、

傷ついた心を無視してしまう、

まさにモラルハラスメントの罠にはまっている

その状態そのものなのですから。