責任感だけは強い

自己愛性人格障害者というのは、責任感は強いです。

逆に強すぎる責任感というのが印象としてあります。

 

それは、自己愛性人格障害者自身が、

自分はいかに責任感が強く、

どれだけの重圧にも押しつぶされずその

責任を全うしているか、

ということを懇々と人に解き諭すからです。

 

まるで、責任感がない人間の言い分とは思えません。

ですから、いざというときに責任をとらないのは、

自己愛性人格障害者が責任感が強すぎて、

その重圧に押しつぶされて結局

逃げたくなってしまうからではないか・・・と

都合よく考える人間もいます。

 

逆です。

責任感がなさ過ぎるので、

責任感があると声高らかに言うことが出来ますし、

どれほどの責任を抱えているかということも

大げさにいうことができますし、

責任をとるとなんでも言ってしまえるのです。

 

責任をとるという感覚が

どういうことかも分かっていないので、

責任を取りますよということは

どれだけでも軽々しくいえます。

 

いや、言っている時点ではまったく軽々しくは

ないのですが、

言っている張本人の心持は

非常に軽々しいのです。

 

ですから大げさに責任をとるのだ、

自分はそれだけの責任が取れる人間なのだと

言っておきながら、

いざというときは自分の能力不足で

責任が取れません。

 

被害者というのは、

そのギャップに戸惑うときが多々あります。

 

なぜとれもしない責任を毎回とるといい、

案の定失敗し、責任から毎回逃れ、

自分や周りに責任転嫁するにも関わらず、

 

同じようにまた責任を取るといい、

責任がとれない自分の能力を過信しているのか?

なぜ自分はこうまで責任感が強いと

思い込めるのか?

と不思議に思います。

 

自己愛性人格障害者は、

責任がとれないのは

自分のせいだと思わないからです。

 

かならず、その責任を負わせようとした

相手の責任、

そして自分は責任を負いたいけれども、

やむをえない理由でそれが出来ない、

という形にするからです。

 

つまり、自分は責任を負う能力もあるし、

責任を負いたいのだけれども、

 

今回の理由はあまりにも理不尽で、

自分が負うべき責任ではない、

そして自分は責任を負いたいが、

とある理由でそれが出来ない・・・

という形に「毎回」します。

 

そして毎回そういう形になってしまうのに、

それがおかしいとも思いません。

なぜなら自己愛性人格障害者は

自分が本当は無責任で、責任を負う能力など

まったくなく、

責任転嫁するしかないのが現状・・・・ということを

気づかずに生きていくしかないからです。

 

「責任をとる」という感覚がまったく分からないため、

しかしすばらしい自分でいたいがために

責任感だけは異常に強く、

その責任能力の低さとは不釣合いなほどの

責任感の強さを持ち合わせています。