自己愛性人格障害者の洗脳の特徴

自己愛性人格障害者のターゲットというのは

よく洗脳されている、といいます。

 

DVをする男性や女性の相手は、

特にそういわれますね。

DVをしているのになぜ逃げないのか?

なぜ「相手にも優しい部分がある」などと

いってそばにいるのか?

 

いろいろな謎があるでしょう。

 

自己愛性人格障害者とそのターゲットも同じです。

自己愛性人格障害者や境界性人格障害者は

暴言や暴力で相手を支配することもよくあります。

これらこそが「DV」と呼ばれるものであって、

DVはもっと暴力性が高い人間のことを言うとか、

そういうものではないのです。

 

では、自己愛性人格障害者の被害者というのは

なぜ逃げないのでしょうか?

実は自己愛性人格障害者が洗脳しているというのも

ありますが、

自己愛性人格障害者はそもそもが「自分を洗脳する」

障害です。

自分を騙して、自分を誇大に考える、

ですから自己愛性人格障害者が必死に洗脳しているのは

自分自身といえます。

その延長上にターゲットがいます。

そして被害者というのは、「洗脳されにいっている」

のと同じです。

 

被害者は非常に洗脳されやすいのですが、

それをまったく自覚していません。

 

そういう酷い人間にはひっかからないという

自負があります。

自己愛性人格障害者とDVを起こす人間は

違うという先入観のせいもあるでしょうし、

自己愛性人格障害者の攻撃になれてしまっている、

あるいは耐えやすいという特性があるというのも

一因としてあるでしょう。

 

また被害者というのは、

「必要とされること」に対して非常に

飢えている人たちが多いのです。

そのために、自己愛性人格障害者がよく口にする

愛だとか思いやりとか

常に心配しているとか・・・・

そういう言葉をとても信じ込みやすいです。

被害者にとって、自己愛性人格障害者の

言葉を信じたほうが、愛を信じることにもなりますし、

すなわち自分が必要とされていて

自己愛性人格障害者の役に立っていて、

存在意義があるのだと信じ込めるからです。

 

そういう意味では、被害者自身も

「自分から洗脳されにいっている」のであり、

「自分自身に暗示をかけている」という

表現も間違ってはいないでしょう。

 

被害者が受けているのが愛情ではなく

ただのモラルハラスメントだとしたら、

自分は役に立っているのではなく

ただスケープゴートとして使われているだけであり、

自分自身をみられているのではなく

ただターゲットとしての自分を

利用されているだけであり、

 

自分は一個人として愛され

必要とされているのではなく

自己愛性人格障害者が自分の自己愛を満たすための

道具だと、思い知ることになるからです。

 

ですから被害者はそれに対しては

避けようとします。

いくら自分が惨めになろうと

酷い目に遭わされようと、

「本当は相手は自分を愛して必要としている

けれども、その愛情が捻じ曲がってしまうだけ」

などと考えることすらあるのです。

だいたい、愛情は捻じ曲がりません。

捻じ曲がっているならもうそれは愛情とは呼べないでしょう。

 

ですが捻じ曲がっていても暴言だとしても

それは「愛が別の形で表現されているだけ」

であり「自分だからこそわがままを言ってくれる」のである、

とだけ考えます、

他の選択肢は目には入ってくるものの、

いつまでもその選択肢から目をそらそうとするのが

被害者であり、

自己愛性人格障害者の洗脳を

自分も知らぬうちにうまく手伝うのです。

 

なので、被害者も知らず知らずのうちに

「洗脳されにいっている」

ということになります。