常識は、助けてはくれない

常識というものは、

基本的に

人を助けるためにあるものでは

ありません。

 

価値観というものは

それぞれ違いますから、

個人がいう「これが常識」というのは

大きな差があります。

 

「結婚したら幸せになるのが当たり前」

「結婚したら添い遂げるのが当たり前」

「会社組織はすぐ辞めてはならない」

というのは、別に常識として持っていても

いいものですが、

その常識を守るためだけに自分を

犠牲にするというのはあまり

健全ではありません。

 

被害者に選ばれる人というのは、

こういった社会的規範をとても大事に

します。

「こどものために、

簡単には離婚は決断できない」とか

「お礼奉公中であるから

奨学金を返し終わってから

辞めないと非常識だ」とか

考えることも多いでしょう。

 

しかし覚えておかないといけないのは、

常識というのは往々にして

「人を簡単に責められる道具」

「マウントをとるための手段」として

用いられているということです。

 

挨拶もせずに非常識だ、

こんな時期に辞めるなんて非常識だ、

子供を連れて離婚なんて非常識だ…。

 

最近は、

そんなことを言う人間のための

道具と化している、

ということは認識しておかなくては

なりません。

 

でないと、

自己愛性人格障害者が

極端な防衛機制(モラハラ思考)の

操り人形であるのと同じで、

被害者はモラルの操り人形に

なってしまいます。

 

しかしそれでも、

被害者がモラルを大事にしなくてはという

「感覚」がとれないのは

事実ですから、

 

そもそも逃げたい被害者は

子連れ離婚や早期退職という非常識よりも、

モラハラとか虐待とかパワハラとか

そういうもっと非常識な出来事を防ごうとしている、

ということを認識して行動するようにしましょう。

 

そういう状況にあれば、

退職するのが常識ですし

離婚するのが常識です。

 

…このように、常識というのは

あまりアテにならないものです。

 

ところが被害者というのは

それでも現状を維持しがちです。

 

つまり、

被害者というのは「常識」にしがみついて

いるわけではなく、

「孤独になりたくない」

「少数派になりたくない」

「事を起こす張本人になりたくない」

「悪者だと思われたくない」

という、他者の目にしがみつきがちである、

という側面もあるのです。