暴力=しつけだという思い込み

暴力はしつけの一部であるという

思い込みがいまだにあります。

確かに暴力というのは強い強制力を

持ちますから、

「暴力をする側」にとっては非常に有効な

手段となります。

 

ただ、しつけを行う側というのは、

どういうしつけを行ったほうが子の利益になるのか?

ということまで考える必要があります。

そしてその段階において、

基本的に暴力というのはしつけの第一選択として

来るものではありません。

 

しかし、暴力をふるう側というのは、

まるでそれが第一の選択である、むしろ

それ以外に方法論はないかのように、

いちいちしつけにおいて

「他の選択肢」というものを考えません。

 

そもそも突発的に行ってしまう暴力、

つまり自分の抑制の効かなさを

「しつけである」というふうに言い換えているような

ものです。

暴力がしつけであるというよりは、

それ以外のしつけを考えている精神的余地がない、

逆にいえば暴力を振るいたいからしつけと称している、

というほうが正しいでしょう。

 

そしてそれをしつけだと思い込む必要がある人達が、

暴力はしつけであった、という言い分しかできない

ともいえます。

 

いや、ただの虐待である、と認めてしまえば

ただの加害行為であるということを理解していながら

そういう行為に至っていたということになりますから、

他人にも自分の悪質性を認めることになってしまいます。

 

暴力はしつけである、軍事教育が残してきたただの文化である

・・・というのは、

暴力というのはしつけではなくしつけるほうの

押しつけであって、

 

結局のところしつける側の抑制の効かなさを正当化した

言葉であるだけです。