なぜ暴力をしつけだと思い込むのか

暴力をふるう人ほど、

自分の正当性を主張するものです。

逆にいうと、自分の正当性を主張するために、

暴力をふるうということでもあり、

暴力をふるうためには、

自分の正当性を主張しなくてはならない・・・

ということでもあります。

 

つまり、暴力を日常的に行っている人や

暴力的になりやすい人というのは、

自分の悪意や攻撃性を認めるほどの強さがないのです。

 

ですから、

暴力をしつけだと思い込んでいるから

暴力をするわけではありません。

 

何かしらの理由で暴力という行為が必要な状況であり

(ストレスを軽減させるためや、衝動的な行動に

出ないとどうしようもなくなっている状態)、

そのために「しつけ」といういかにも正当性を

連想させるような言葉を

持ち出してきます。

 

そのために必要なのが、

「しつけをされるような、子供の醜い行為・

酷い行為・未熟な行為」です。

 

いいつけを守らなかったとか(ここで、子供が守れるような

難易度のいいつけだったかそうでないかは

暴力を振るいたい親にとってあまり関係がありません)、

時間を守らなかったとか

字がうまくかけないとか

なんでもいいのです。

それらしい「しつけができる場面」があれば、

虐待をしたい親というのはなんでも理由にして

子供を虐待します。

 

親が何らかの理由で不愉快になったとしても、

その気分をさっさと変えられない、親の心情を察知できない、

親に気配りができない感謝ができない・・・

といった理由で子供に対してしつけと称して

暴力をふるおうとします。

それは時に暴言であることもあるでしょう。

 

暴力を、しつけだと思い込みたいからこそ、

そういう理由を持ち出してくるのです。