過干渉な親

過干渉な親の正体

過干渉な親というのは

しばしば身近な例として接触する機会があったり、

一部メディアにも登場します。

 

バラエティ番組などだと存在が奇異であればあるほど、

過干渉がすぎればすぎるほどネタとして

取り上げやすいこともあるでしょうが、

それが現実としても起こりえているとなると

かなりの問題です。

 

しかし多くの場合、過干渉というのはお節介とか

世話焼き、過保護という言い方で括られ、

その本質的な問題を理解されないこと、さらに

過干渉である親自身が自分が過干渉であるということを

全く認識できないこともこれらの問題を根深くしています。

 

過干渉ということは、子供の今後に非常に

大きな害を与えます。

 

その実態は、自分の問題を解決できないのに

それを棚に上げて子供のせいにしたり、

子供に対して甲斐甲斐しく世話をすることによって

何らかの課題から親自身が逃れようとしている。

そのしわ寄せが、子供にくる。

過干渉とは世話好きな愛情を持った行為ではなく、

実際はそういうものです。

 

しかし、「世話好きな愛情を持った」

親がやることだというイメージを持たれ、

また過干渉な親も自分のことを「世話好きな、

愛情を持った」親であるという認識くらいしか

持っていないことも多く、

「そういうイメージを自分自身が持ちたいが

ためだけに」過干渉になるというケースも

少なくはありません。

 

過干渉=支配である

過干渉、というのは当然ですが

相手に対して干渉しすぎる、

相手に関わりすぎるという意味ですから

「必要以上に」口出しをしたり相手をコントロールしたりという

要素を含みます。

 

そして、過干渉ということはそれをする人間が

「必要以上に干渉してもいい、する資格のある人間」

と思っていて、さらに「必要以上に干渉しなくては」という

義務感を持っていることもあります。

 

ここで、干渉する側と干渉される側の

支配関係が成り立ちます。

つまり、干渉する側は、なんらかの理由で

「あれこれと口出ししてもいい、

相手をコントロールする資格がある」

と思っているということです。

 

ところがそれは支配的な面が強く出すぎるので、

「支配だなんて仰々しい。私はただ

“愛しているから”世話をやいているだけだ。

子供を愛して心配するのは当然のことではないか」

と“愛”という言葉に都合よく置き換えます。

 

ここで、この親にとって口出ししないこと、

見守ること、つまり子供に選択を任せるということは

まず選択肢としてないという考えが垣間見えます。

 

そして過干渉であるということを

認めたくない、そんな言葉で言い表すことさえ

許せないという思考も見え隠れします。

 

こういう親は、過干渉である、過保護すぎるという

ことをどうにかして正当化しようとします。

子供が心配だから。

子供を愛しているからこそ口出しする。

人様に迷惑をかけない人間に育てなくては

ならないから。そうでしょう?

といった理由です。

 

それは、「自分が支配・コントロールしてさえいれば安心」

という気持ちの表れでもあります。

そしてそれは、誰が安心するのか?

本当は誰のためなのか?ということを過干渉な親は

気づきません。

いつでも、「これは子供のためである」

と思っているのです。

それは裏を返せば、「自分が口出しする・過干渉なのは、

口出ししないと思い通りになってくれない子供のせいである」

と言っているのと同じことです。

 

子供の将来が本当に心配ならば、

口出ししてしまう自分をまず心配してしまいます。

子供をコントロールしようとすれば、いつまで経っても

子供の自立心は育たないということを

健全な親は理解しているからです。

 

親という立場

親、というのは子供からみれば保護者ですから、

保護者であることをいいことに

自分の子供をいつまで経っても自分の一部としか

みなさない親も存在します。

親から見た子供というのは、最も干渉しやすい相手と

言ってもいいでしょう。

 

自分の叶えたい願望を自分では叶えられないから

子供に叶えさせようとする。

嫌だと言っている子供の髪色を、自分がしたかった色に

勝手に変える。

子供には子供のプライバシーがあることに気付かない。

管理が必要なくなってもなお常にカバンの中身を

確かめる。子供が捨てたゴミを漁り、

携帯電話を覗き見る。

 

子供は成長し自立していくものなのに、その自立が

自分への裏切りのように感じます。

 

しかし、この裏切りのように感じる、つまり子離れが

非常に辛いという気持ちはある意味、健全な反応です。

 

特に母親にとっては反抗期は第二の出産ともいわれるように、

子供の精神的な自立に伴う強い痛みが出てきます。

ところが、その強い痛みそのものをまるで本当に

裏切りである、つまり精神的自立をすることは

親に対する裏切りであり許せない、とでも言わんばかりに

子供の自立を阻害しようとする親が存在します。

 

自立に伴う痛みに耐えられず、その痛みを

放棄しようとする親です。

子供の精神的自立への道に欠かせない、親の痛みを

親が引き受けたくないために子供が自立しようとするせいだと

子供のせいにしてしまうからです。

 

そういう親は、より子供に対して干渉的になり、

子供を屈服させようとします。

しかしその痛みに親自身が耐えなくては、

子供は決して精神的自立を達成することができず、

アイデンティティの確立に達せず

大きな問題を抱えてしまいます。

 

アイデンティティの拡散、つまり自分自身というものが

確立されないまま育つと、

自分のない人間になってしまいます。

 

自分のない人間というのは自他の境界が曖昧で、

しばしば相手の問題を自分の問題、責任のように

考えすぎたり、

あるいは程度がひどすぎると神経症や

パーソナリティ障害まで

発展してしまうこともあります。

 

そうなると、過干渉な親を持った子供も自然と

同じように親となった後に自分の子供に

支配的な関係を強いる原因の一つとなるのです。

 

子供は小さいころ、当たり前のように親に頼ります。

親に頼っている、という自覚もないまま

親は世話をやいてくれるのが当たり前の存在です。

しかし子供はいつか自立します。

いつまでも親の世話になりながら生きていくことは

社会で生きていく上で難しいからですし、

そもそも精神発達上、親とは別存在として自立していくのが

当たり前のことです。

 

しかし、必要とされることに執着する親というのは、

幼いころに「必要とされた」という感覚から抜けられないまま、

精神的自立をする子供がまるで

「あなたは必要ないよ」「あなたはもう無価値だよ」と

言っているかのように感じ、

「いや、自分はお前にとって絶対的に必要な存在である

はずだ!お前は私の世話がなくては社会的に

生きていけないはずだ!」

と言い張るかのように精神的自立を否定しようとします。

子供の自立が自分の精神的危機となってしまうのです。

 

自他の区別がついていない

自他の境界が曖昧である、ということはつまり

自分は自分であるという確固たる認識がない

ということになります。

人は、成長過程で必ずアイデンティティの確立を

目指そうと模索します。

ある日突然、急に「自分はこうだから自分なのだ!」と

目覚めるわけでもなく、生まれた日から自分は自分であるという

認識があるわけではありません。

アイデンティティの確立がなされるにはさまざまな課題が

あります。

 

ところが、親という存在が

そのアイデンティティの確立にとって大きな阻害因子になる

ことがあります。

その大きなものの一つが過干渉です。

過干渉は、そういう意味で虐待行為ともみなされます。

 

しかし、先に述べたように“愛ゆえである”という形を

とりやすいですから、一般的に過干渉というものが虐待には

なかなか結び付きにくいというのが実情です。

 

その親が自他の区別がついていないからこそ、

子供に過干渉になり、子供もアイデンティティの確立に

失敗しまた自他の区別がつきにくくなる。

その連鎖です。

 

そして子供が精神的自立をしようとすると、

過干渉な親は必ず阻害しようとします。

なぜなら、自他の区別がつきにくい親にとって、

子供というのは「自分の一部」であり、そうでなくては

自分自身を投影しにくいのです。

 

自分を投影できる相手だからこそ、

自分の願いを叶えてくれる、自分の思い通りにできる、

まさに一体化した自分自身のように

感じ取ることができます。

ところがそういう相手である子供が、「自分は自分である」と

言い出すことなど完全な裏切り行為に感じるのです。

 

こうなってしまうと、保護者であることをいいことに

「もう〇〇を買ってあげない」とか

家で無視し続けるとかそんなに自立したいなら

自分ひとりで生活すれば?と突き放したりして

子供を追及したり親を見捨てるのか、と罪悪感を

植え付けたりします。

 

共感性の欠如

過干渉な親の共通点として、

共感性の欠如というものが挙げられます。

 

子供は自分を投影するためのアイテムであり、

自分の要求を自分がかなえられない代わりに

子供に叶えさせる、

そして自分が必要不可欠な存在であり続けたいがために

子供を「何もできない子」「選択権を与えても

間違った選択ばかりする子」

としてみなし続けます。

 

そこには親自身の要求、本音・・・つまり

「自分は本来髪型をこうしたかったができなかったので

子供にこうさせる」

「自分が必要な人間であり続けたいから

子供は無能というほうが都合がいい」という想いだけが

存在し、

「そうされた子供はどう思うか?」

という相手の気持ちを鑑みる、共感するといった

状況が皆無という点が目立ちます。

 

子供が職業選択をしたい、といって

「そうだね、自分で選んでみたら。

あなたの選んだ仕事ならなんでも応援するよ」と

選択肢を与えたように見せかけても、

「その仕事は給料が少ないからとてもやっていけないと思うよ」

「それは知人が将来性がないと言っていたから

やめたほうがいいと思うよ」

「その仕事に就くなら大学は出ないといけないけど

ここからじゃ通えないから無理じゃないかな」と

何を選択しても同意はしないなど、

結局「親自身が理想とする職業でないとYESと言わない」

ということもあります。

 

否定された子供がどう思うか、ということは

まるで考えてはいないのです。

 

過干渉を受けた子供

共感される機会が少なくなった子供、過干渉を受けた子供は、

強い劣等感を抱くか、過干渉な親にとって都合のいい

「人に選択してもらうのが当たり前の、自分では

何も決められない子」そのままになってしまいます。

 

過干渉を受けた子供というのは、

しばしば過干渉になってきた親に対する

激しい憎悪を抱えている場合があります。

 

しかし親の過干渉に気が付かず、

それが当たり前のものとして受け入れている場合もあります。

それは、親に対する憎しみや違和感を認識するほどの

力がない場合もありますし、

親の過干渉は愛情そのものなのである、

と思い込んでいたほうが精神的に楽であるという

場合もあります。

 

どちらにしろ過干渉な親を持った子供というのは、

自分で選択することが難しく、

自分で選択するにしても自分の考えに自信がなく、

また自分で選択したいのかどうかということすら

分からなくなってしまうこともあります。

 

こういった場合、「支配されていたほうが楽である」

という考えの子供となりますから、

社会に出て、人をコントロールしたいような人間の

標的になったり、

逆に親の過干渉による憎しみやストレス、劣等感が強かったり

自他の境界の曖昧さが目立つ場合は

適切なストレス対処ができず逆に支配する側として

振舞ったりして責任回避をしようとすることもあります。

 

家庭の機能不全

子供に過干渉な親というのは、

自分のパートナーにも過干渉である場合があります。

しかし子供への干渉が目立つのは、

親にとって子供というのは干渉しやすい立場にあるということ

(強者-弱者という関係が成り立ちやすいため)、

そしてそれゆえに干渉の対象がパートナーから子供に

移りやすいということが挙げられます。

 

片親が、過干渉なパートナーからの

追及を逃れたいと考えている場合、

家庭に無関心な人間となります。

そういう片親だと、過干渉な親からの子供への攻撃を

見て見ぬふりをし、

子供をスケープゴートとして利用しがちです。

そうなると完全に、子供の逃げる場所はなくなります。

 

また、共感性の低い親同士が結婚すると、

これもまた子供は行き場をなくし、

家庭というものはそれが当たり前なのだという

認識しか持ちません。

 

過干渉ではないほうの親の存在というのは

子供にとって非常に重要な役割を果たし、

過干渉な親からの攻撃を防ぐ緩衝材として機能しなくては、

家庭は完全に機能不全に陥ってしまいます。