高学歴にこだわる人は、自信がない

高学歴であるということに相当高い

プライドを持つ人がいます。

 

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学歴のためだけに、必死に猛勉強する人もいます。

まるで、高学歴になるためだけに、いわゆる「エリート」と

よばれる仕事に就くためだけに生まれてきたかのような

言い方をする人もいます。

 

学歴が高いことに関しては当然、何も問題はないでしょう。

ところが学歴の高さというのは、社会に出てからの

「昇格」や「能力の高さ」に必ずしも比例しません。

いい大学に入って、いい就職先に。

というのは単純な考え方ですが、

その「いい就職先」とやらに入ったからといって

その人の営業成績や実務能力の高さに繋がるかどうかとは

また別の話だからです。

 

就職してもなお、自らの学歴のことを持ち出してくる。

年齢を重ねてもなお、良い大学に入って・・・という自負を

何度も繰り返す。

そういう人は、学歴というもので何かしらの

コンプレックスを乗り越えようとしています。

あるいは、自分自身がコンプレックスの元となりえていて、

そのぶん学歴というものに補ってもらおうという

意識が高ければ高いほど、学歴の話を持ち出してくるでしょう。

 

そしてこれは高学歴の人に限った話ではありません。

低学歴(誰がどこまでいったら高学歴、いけなかったら

低学歴と定めることは不可能ですが)の人に関しても

同じような現象がみられることがあります。

 

目だった学歴がなかったとしても、

成績は優秀なほうだったとか、スポーツ万能だったとか、

あの時ああいう選択さえしていれば自分も

高学歴な仲間たちの一員だったとか。

もしそうであったなら、もっと違う人生を謳歌していた

だろうとか。

 

「学歴がないこと」だけで、自分は不幸に見舞われたのだ、

自分があの時あの大学を選択していればきっと

違う人生が生まれたはずだ。

という考え方にとらわれてしまっている状態です。

 

つまり、いまの境遇を「過去」のせいにして、

いまどうするかという具体的な課題から

目を背けようとしている行為でもあります。

 

こういう場合も、高学歴というものに拘る

場合があるでしょう。

しかし、こちらの場合は「勉強さえしていればきっと

いい将来が確保できる」ということを

信じ込もうとして勉強している人達と異なり、

「高学歴だからといって、いい将来が確保できるわけではない」

ということをうすうす感じ取っている場合があります。

 

ですから、高学歴に拘るというよりも

「高学歴だったなら、もっといい将来があっただろう」という

考え自体に固執していたほうがいい状況にある、

ということです。

 

かといって本当にそう思っているわけではなく、

今の境遇への言い訳をしたいからそう思い込まされている

だけなので、

実際に猛勉強をしたりすることもありません。

 

しかしこういう人達は、

「学歴」を人間を構成する一つの要素としてだけでなく、

「アイデンティティそのもの」として

捉える傾向があります。

まるで高学歴である自分とそうでない自分は別存在である、

と言っているかのようです。

 

もちろん、勉強が好きでそうしているなら

アイデンティティの一部にもなりえるかもしれません。

しかし高学歴に拘りすぎる、いちいち高学歴ということを

ひけらかす必要がある場合は、

勉強が好きというよりは劣等感を持った自分自身を

埋める作業として勉強を使っている、ということですから

勉強で躓く、勉強ですべてがうまくいくわけではないということを

理解し難く、

高学歴でない自分というものを受け入れられません。

 

 

 

また学歴というのは人を測るうえで

非常に分かりやすいものでもあります。

知識はないよりあったほうがいい、というのが社会通念でも

あります。

 

学歴というのは人を賞賛するにも、自画自賛するにも、

人を批判するのにも大きく利用されます。

いずれも「こだわっている」という証でもあります。

 

自分で自覚している程度の学歴、成績不良な人間がいて、

それを正当化するために

「いや、学歴なんてあってもしょうがないし、

学校なんて馬鹿みたいな場所だよ。学校なんて

行かなくていいんだから」という極論を

自分の子供に与えてしまう場合も、ある意味親が学歴への

拘り、コンプレックスを見せているということになります。

 

自分は成績不良だったわけじゃない、

学校の教え方が悪いのだ、学校が無意味に感じたから

勉強に身が入らなかったのだ。

という正当化です。

こういう人も、学歴に拘りがないようでいて

人一倍学歴というものに拘っているといえます。

 

実務能力がない人は、高学歴に拘ります。

そして、実務能力がない自分自身の問題を、

「仕事」や「他人」の問題に置き換えます。

 

「これは、自分がやるべき仕事ではない」。

「この仕事は、自分みたいな高レベルの人間では

到底納得いかない案件だ」

「上の人間は、適材適所というものが分かっていない。

こんな仕事を自分に与えるなんて」

 

つまり、自分の能力がないから仕事ができないのではなく、

自分に適した仕事ではない、自分がやりたいと思うような

魅力的な案件ではないからだ、

そしてこういう仕事を振ってくる人間のせいだ、

ということにしがちです。

 

そして仕事に対するやる気というのも失われていき、

そういう傍若無人ぶりから人が離れていくと、

「自分に対するやっかみだ」

「自分がレベルが高すぎるから、周りの人間が嫉妬して

足を引っ張ろうとしているのだ」

というような思い込みにまで発展したり、

仕事をやめたりします。

 

学歴が高い自分が(あるいは学歴は大したことないけれども

成績は優秀であったと考える人間が)、

なんでこんなバカみたいなことをやらなくてはならないのか?

ということを、どんな仕事を与えられても

考えてしまうのです。

 

しかし、そこには

仕事ができない自分というものを直視したくないゆえに

そういう考え方に逃避するしかないという

実際があります。