モラハラ加害者がみせる優しさ

自己愛性人格障害者が

優しさを見せるときというのは

当たり前のようにあります。

 

優しさ、ということの定義はそもそも

相手の気持ちがわからない以上、非常に

難しいのですが、

自己愛性人格障害者の場合、

優しさは脅しであり取引でしかありません。

 

優しさというのは人に対する共感性や思いやりから

来るものですが、

自己愛性人格障害者が人に対して共感性を持つというのは

その思考上非常に困難なものです。

 

そこに、思いやりというものは存在しません。

必ず「返ってくる何かしらの報酬」を期待して

行うものです。

ある時は自己愛性人格障害者の代わりにやってほしい

ことがある、お金を出してほしいものがある、

あるいはターゲットが自分の元から逃げる口実を

作り出さないように画策する

(贈り物一つでもこれだけしてやっているのだから

自分のもとから離れるなんてありえない、という

取引になります)、

ということが考えられるでしょう。

 

人は良心があって当然という性善説のもとに

物事や人を捉えたりすることが基本であるため、

優しさがない人間の優しさというのはなかなか想像し難いのですが、

自己愛性人格障害者はそれを体現するかのように、

ターゲットや被害者が優しさに対する

「それ相応の贈り物=思い通りに動くこと」を返さなくては

怒り出したり、自分は馬鹿にされた、騙されたと

思い込みます。

 

この「思い通りに動くこと」ということが

非常に重要で、被害者がモラハラ加害者に対して

何かを返そうと思っても、

その「何か」が自分の思ったとおりのことでなければ

「そういうことではない」と憤慨するだけです。

 

たとえば、交際したいと思っている相手に

モラハラ加害者が贈り物をしたとして、

そのターゲットがそのかわりに何か返したとします。

 

ところが、こういう場合、多くのモラハラ加害者というのは

「付き合うこと」だけを前提として贈り物をしています。

それは、一種の脅迫でもあり、モラハラ加害者の弱さでも

あります。

ただ贈り物をしたからといって相手が自分のことを好きになるとは

限りませんし、それほど人間関係は単純ではありません。

しかし、モラハラ加害者、つまり自己愛性人格障害者の多くは

「付き合わないという未来」という可能性があることを

考えること自体がストレスとなり、耐えられないのです。

ですからそういう未来を見ないようにします。

その結果、何が起きるかというと

「贈り物をしているのだから付き合うのは

当然」

「自分のことを好きでいるのが当然(好きと言われたわけでも

ないのに)」

という考えに至るようになってしまいます。

「贈り物をしたとしても、付き合わないこともある」という

考えにはなれないわけです。

 

ですから、ターゲットが何かアイテムを返したとして、

それを「付き合おうという意志表示だ」と思い込んだり、

「自分は付き合うつもりで贈りものをしてやったのに、

一向に返事がこないがどうなっているんだ」

ということになりがちです。

 

「あの時お返ししましたよ」と言っても、

「そういうことじゃない」「お前は何もわかっていない」

「だましたんだな」という考えに至るのもそういう理由です。

つまり、「私もあなたと付き合いたいです」という答えだけが

ほしくて(多くは貰えるのが当たり前だと思っていて)

贈り物をしたり優しくしているのであって、

それがもらえない、つまり相手がコントロールされないと

一気に怒り心頭になり、「お前にどれだけ施してやったと

思ってるんだ」となります。

 

 

 

これは結婚していたケースでも同じで、

婚姻関係にあった場合はモラハラがあったとしても

自己愛性人格障害者は自分のモラハラ行為・モラハラ思考に全く

気が付いていませんから、

パートナーを思い通りにするためだけに優しくする、

という行為になります。

 

「うちの夫は、いわゆるモラハラ・DV夫ではないと思う。

だってとても優しい時があるから」

という言葉自体が完全にDVやモラハラを誤解しているからこそ

出てくる台詞です。

モラハラやDVというのは、「優しさによる脅迫、

コントロール」も含まれます。

だからこそ、パートナーが逃げだしたときに

「あそこまで尽くしてやっていたのに、逃げられた。

裏切りだ、信じられない。人として許されないことだ。

あなただっておかしいと思うでしょう」

という言葉が次々と出てきます。

 

DVやモラハラ被害者というのはこの脅迫に

屈しながら生活してきた面がある場合がほとんどなので、

離れてもなおそういう風に脅迫されたときに

良心が咎められ、

「確かに、今までのあの人の優しさをないがしろにしてしまう行為だ。

やっぱり自分が間違っているのかもしれない」と

また戻ってしまうこともよくあることなのです。

 

それまで人に優しくされたことがない人や、

他人に対して疑心暗鬼になっている人などだと

自己愛性人格障害者の優しさが身に沁みる場合があります。

これこそが、「自分はモラハラ被害にあっているようだ」という

訴えと同時に

「けれども他のモラハラ加害者とは違う。だって

自分にとても優しくしてくれる」という擁護がまじりあう

原因となります。

 

そして、モラハラ加害者の優しさを

「自分をコントロールするため」と見抜けない

被害者自身にもまた、

良心につけこまれる隙を作り出す

「愛への妄信」という原因があります。

 

ということは

愛されているから優しくしてくれるのだ、

という思い込みをしたほうが、

被害者にとっても都合がいいということでもあります。

そして愛されているわけではなかったのだ、

というたった一つの答えを被害者が受け止める覚悟が

できるようになって(これには時間や環境の変化、

心境の変化も必要ですが)、

初めてDVやモラハラというものから脱することができますし、

あれは優しさからではなかったのだと

気づくことができるようになります。