被害者の誰もが、自己愛性人格障害を改善させたい

被害者というのが

とにかく自己愛性人格障害者の

「このモラハラさえ治れば」

という一縷の望みに固執する仕組みというのは

ここのブログでも多く述べてきたとおりですが、

 

被害者というのは

文字面でどれだけ

「自己愛性人格障害は治りませんよ」と

言われても、

諦めることはしないでしょう。

 

さっさと諦めて

別の道を探したりするくらいなら、

そもそも被害者は被害者になってはいないのです。

 

変化を嫌い、

自分が原因になることを嫌い、

とにかく必死に他人の課題を請け負い続ける。

それがターゲットがターゲットたるゆえんです。

 

ですからモラハラ被害者というのは、

自己愛性人格障害を改善させるための

手立てを必死に探し続けることでしょう。

しかしそれはそれで無駄にはなりません。

 

被害者にとって、

「改善させるために手を尽くす」

というのは非常に大事な作業なのです。

この目で、本当に改善しないのか、

本当に手段はないのかというところを

実感しなくては

被害者というのは諦め切れません。

 

被害者が自己愛性人格障害者のモラハラを

無くすために努力をするというのは、

自己愛性人格障害の改善を本当の意味で

諦めるためには必ず通らなくてはいけない

試練のようなものなのですから。

 

そうしないと、

被害者というのは逃げたら逃げたで

「相手に何もしてあげられなかった」と

逃げてもなお引きずってしまいます。