訴訟は大好き

自己愛性人格障害者は、

自分が勝てるという算段を踏みやすく、

争いごとになると訴訟というものに

踏み切るハードルが非常に低いといえます。

 

これは自己愛性人格障害者が、

「公の場で」

自分が正しいということを示すことが出来る、

なおかつそうする必要がある場合に、

裁判というのは

うってつけの場所だからです。

 

特に自己愛性人格障害者が

自分が被害を被った、絶対に許さないと

憤っている場合は、

訴訟に踏み切る可能性が非常に高いと

いえるでしょう。

自己愛性人格障害者は、

「あなたが正しいですよ」という審判を受けることが

とにかく大の好物ですし、

「あなたが正しい」という審判を

自分が受けるに決まっているという

確信を持っています。

まさかそんな善悪の審判で

自分が負けるなどと思ってはいません。

 

ですので

いかに自分が被害を被っているか?

相手がいかに正しくない、悪人で、

非道な人間なのか?ということは

饒舌に語ることができるでしょう。

ここで問題なのが、

自己愛性人格障害者は自分が被害者だと

主張しようとするあまり、

自分の受けていない実際の被害さえ

誇張して訴えるようになってしまい、

相手がどれだけ悪者で

おかしな人間なのかということを知らしめるために

かなり酷い言葉で相手を罵ってしまいます。

自己愛性人格障害者にとっては

ここが正念場であり

自分の正しさを知らしめることが出来る!

と恍惚となっている・・・・いわゆる

ナルシスト状態になってしまっていて、

現実的に見てどうなのか?

人としておかしな表現ではないか?

場の空気が読めているか?

というのは二の次三の次になってしまいます。

 

ここで、普通の人との乖離が出てしまい、

自己愛性人格障害者が「おかしくて、厄介な人」の

レッテルを貼られがちなのです。

特に裁判が自分の思い通りに

少しでもいかなかったり、

弁護士が自分の意に沿わなかったりすると

かなりの非難を繰り広げてしまいますから、

それこそ自分以外のすべての人間を

敵に回し勝ちなところがあります。

自分の目先の正しさを主張しようと

するあまりそれに固執してしまい、

冷静な判断ができなくなってしまうのです。

自分の弁護士でさえ

自分の思い通りにしたいという

気持ちが強すぎてアドバイスを聞けなく

なりますから、

自己愛性人格障害者の独り相撲になって

しまいます。

 

自己愛性人格障害者にとって、

裁判というものもただ自分の自己愛を

最大限に満たすためだけの

「舞台」であり、

周りはそれに脇役として参加させられているだけの

気さえ起きてしまうのです。